高槻市議会議員 高木りゅうたのブログ

高槻市議会議員・高木の活動日記

ボランティア

先週、岩手県釜石市にボランティアに行ってきました。

バイオマスの材料として処理するのでしょうか。釜石駅前のバイオマス加工場の敷地に大量の瓦礫が積まれていました。

いまだに復旧していない信号のある道路が何箇所か残っていました。

釜石市社協のボランティアセンターに朝8時半に集合し、当日に作業が各人に割りあてられます。
ちなみに釜石市は遠いからか、宿泊地が多くないからか被災地の中でも比較的ボランティアが少ないそうです。

初日は廃校になった中学校で仮設住宅に入居した方たちに企業から送られた生活物資を配布する作業に参加しました。

物資を取りにくる方は自宅が半壊もしくは全壊した方たちでしたが、どなたも笑顔でお礼を言ってくださり、気構えしていた自分がすこし気恥しくなりました。そんななか、車に物資を積み終えた一人のお母さんが「お兄ちゃん、お父ちゃん(旦那さん)のかわりになれん?お父ちゃん流されてしまったんよ」と冗談ながら悲しさを伴ったその一言にかける言葉が見つかりませんでした。

廃校になった中学校では仮設住宅も建設されていました。地震で崩落した外壁の隙間から仮設住宅が見えました。
仮設住宅では人づきあいがなかったり、僻地に建てられたせいで車のない人が買い物に困ったりと問題がもう出始めているそうです。

釜石市は主に港周辺が津波の被害に遭いました。

このタンカーは乗り上げたまま修理し、10月に現場復帰するそうです。

港周辺は商店が立ち並ぶ所で、二日目のボランティアではこの地域で、住んでいた家が取り壊しになったお宅の荷物を運び出す作業をしました。このお宅の奥さんから震災当日の様子を少し聞かせてもらいました。
地震直後はとにかく揺れがひどく、直感的に津波がくるだろうと思ったそうです。はじめは床下浸水くらいで済むだろと思っていたそうですが地震から50分後、遠くから噴煙とともにバリバリという音が聞こえてきたのでとっさにカバン一つ持って家を出て高台を目指し走ったそうです。
奥さんは民生委員をされていて、逃げる途中に一人暮らしのお年寄りの家をまわって三人のお年寄りと高台へ避難したそうです。後になって、もっとお年寄りに声をかけて一緒に逃げればよかったと悔やんでいると仰っていました。
自宅に近い病院に避難したそうですが、四日間食事をとれなかったそうで、誰かの食べ残したトマトをこっそり食べた時のそのおいしさと食べ物のありがたさは一生忘れないと仰っていました。
印象的だったのは奥さんがいつかまた自宅があった所で暮らしたいと仰っていたことでした。

その後、津波で流された写真の洗浄作業に参加しました。写真に写る見知らぬ人が無事であることを思いながら作業をしました。

高槻市のボランティアバスが支援に向かった釜石市の隣町・大槌町にも行きました。写真の通り、原形が想像もつかない場所を散見しました。車の通行は少なく、重機で建物を解体したり瓦礫を運搬するダンプの音だけが聞こえてきました。

都合上、ボランティアに二日しか参加できなかったのが心残りでした。釜石をはじめ、被災地がどのように再生していくのか、どのような支援ができるのか考えながらまた訪れたいとの思を強くし帰路につきました。
ボランティアで知り合った海外青年協力隊のOB会から来ていた方があと5年はボランティアに参加するといっていました。
これから長い視野で被災地にできることがあるはずです。
大阪に帰る前に釜石駅前の食堂で食べたうに丼の味とボランティアで出会った素敵な方たちのこと忘れません。
それではまた。
釜石市ボランティアセンター
http://blog.canpan.info/kamaishi-vc/