高槻市議会議員 高木りゅうたのブログ

高槻市議会議員・高木の活動日記

福島の現状

◆7/29から7/30にかけて福島県飯舘村浪江町郡山市を訪問。

飯舘村で酪農をしていた長谷川健一さんはなんとか村の再生の手がかりを見つけるべく、
畑の土を取り、セシウムを吸収する鉱物を投入してそばを実験栽培したそうだが、そばからはキロ27ベクレルのセシウムが検出される。
「村では酪農も農業も難しい。何やっても空しいんだ」。
そんななか、村には8月にオープンする立派な道の駅が完成していた。
「何売んのか知んねぇけど」と長谷川さん。
事故前に45億円だった村の予算がいまは200億円に膨らんでいる。
村は学校や全天候型テニスコートを新築して、なんとか村民を呼び戻そうとしているが、3月の避難解除から村に帰還したのは事故前の人口の6%ほど。
避難先に定着し、固定資産税が発生するので家を解体して(国が全額補助)、土地を手放す村民も多いそうだ。
かつて四世代が同居していたという自宅で話してくださった長谷川さんの後ろには「2011年3月」のカレンダーが。
「これは外せねぇな。放射能はなにもかもバラバラにしちまうんだ」。
長谷川さん一家はそれぞれ別の自治体でいまも避難生活を続けている。

飯舘村に設置されたモニタリングポストは1.0マイクロシーベルトを示す。

持参した線量計をモニタリングポストの直下に置くと倍の数値が。
ちなみに放射線防護の措置が必要になる放射線管理区域は(放射性廃棄物の貯蔵施設や廃棄施設、放射線医療施設など)
、毎時0.6マイクロシーベルトだ。

その後、浪江町へ。
原発事故によって、福島県の避難区域の家畜たちは、置き去りにされて朽ち果てるか、殺処分されるかという状況に追いやられるなか、酪農家の吉沢正巳さんは牛たちの殺処分に抗し「希望の牧場」で現在320頭の牛を飼っている。
「こいつらは俺と一緒に原発を告発する同志なんだ」。
吉沢さんは最後の一頭を見届けるまで牧場を続けるつもりとのこと。
しかし浪江町は人が住む場所ではないともいう。


牧場の入り口には「除染解除してもサヨナラ浪江町」と書かれたベニヤ板が掲げてある。
「3月の解除で帰還したのは1%だけ。事故前は2万人の町だったけどいまは200人。これで暮らしが成り立つのか」。
吉沢さんは町の将来を悲観しながらも「希望は自分で作るもんだ」と力強く話していた。
原発事故で一変した町で、絶望と希望のはざまで揺れながら、吉沢さんは闘っていた。

二日目は郡山市の農家、中村さんを訪ねた。
健康や環境のために、米や野菜を有機栽培で育ててきた先代は3ヶ月前に急逝され、
息子さんが後を継ぐも「いままで米の全袋検査で放射性物質は検出されていないけれど福島の米も野菜も買いたたかれる」という状況が続いている。
「それでも百姓は簡単に農地を手放すわけにいかない」。
有機栽培を続けてきた田んぼに行くと、そこはどじょうなどたくさんの生き物たちの住み処だった。
自然豊かな圃場にも原発事故が大きな影を落としていた。
◆6年経過しても事故処理の解決策が見当たらない原発と同じく、
先行きの見えない暮らしのなか、いまも多くの人が悩み、苦しんで、それでも生きていこうともがいている。
そのことを忘れてはいけない。